“倭の登場”日本列島先史・古代

 古くから日本列島は、海をこえてさまざまな地域と関係を持ち、その影響を受けて変化してきたのである。水田農耕が始まって数百年を経た頃、日本列島は外の世界と新たな関係を持つようになる。「倭」という名称で、日本列島社会は東アシア国際社会へデビューした。後に日本列島は、遣唐使や日本貿易など、折に触れ中国を中心とした東アジア世界との関係に刺激を受けて、時々の社会を変えてゆくが、その始まりはこの時期にある。

 中国や朝鮮半島からもたらされた情報や物資は、各地の社会に受け入れられ、その結びつきを変えていったのである。ここでは、各地の社会を結びつける「もの」や、その「結びつき」に注目して、中国から「倭」と呼ばれ始めた頃の日本列島の様子を眺めてみることにしたい。海を渡り、中国から日本列島各地へと、一・二世紀の東アジアを旅することにしてみよう。

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環濠集落:弥生都市

弥生都市をめぐる議論

1990年代に、一部の考古学者の中から「弥生都市論」が発表されて大きな話題になった。
弥生時代の代表的遺跡が発見された。佐賀県吉野ヶ里遺跡である。この遺跡の環濠が発掘された時には「耶馬台国の候補地」とか「弥生都市」といった見出し等が新聞紙上を賑わした。
しかし、・・・
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